2016/08/31 11:15
皆様こんにちは!!SKYHOPEの金山です!!
前回に続きまして、バンド編の後編です。
白いフェルナンデスのストラトを持ち、私の担当はサイドギターとリードボーカルとなりました。
当然の如く大音響に私の声は埋もれ、マイクのボリュームを上げれば呻るハウリング…自分の歌の下手さ加減と、先人バンドの偉大さを大いに思い知ることとなりました。
そんな悩ましくも楽しいある日、時は高校3年生の文化祭シーズン、U君の通う学校の文化祭でバンド演奏をやろうという話が上がり、いよいよ我々もライブデビューだ~!!と喜んだのも束の間…数日後、W君から「どうも出演者は在校生に限るらしい」との悲報…違う高校に通っていた私は出演NGなのです。
メンバーが車座になってあれこれ思案し、「何とか主催者を騙して金山を潜入させよう」という案も考えてくれましたが、何しろ卒業を間近に控えた4人、学校にバレたら大変です。話し合いの末、リードボーカルをW君メインとして、4人で文化祭出演ということになり、私は客席で応援という形でのライブデビューとなりました。
これを皮切りに、少ないながらもライブを行うようになり、翌年1984年5月に大阪青少年センター大ホール(現 KOKO PLAZA)、そしてその翌年の6月は郵便貯金会館大ホール(現 メルパルク大阪郵便貯金会館)、そして1986年5月のYANTA鹿鳴館(現 西九条ブランニュー)が、後に紹介する我々バンドとしての最後のライブとなります。
たった4回のライブでしたが、この爽快感ときたら…汗だくの緊張感の後に頂く温かい拍手は何よりも快感で、下手な歌もバンドならメンバーが演奏とコーラスで助けてくれる安堵感もあり、これまたバンドの良さだとライブを通じて感じることが出来ました。
しかし、そもそもが個性豊かで若いメンバーの集まりです、バンドとして必然の成り行きであるかのように年数を経るにつれ、それぞれが持つ「個性」が互いに突出し、演奏を巡って各人の主張がヒートアップすることもしばしば出始めてきました。
ドラムス担当のK君は、他のメンバー同様に親友でした。
オーディオに精通し、ビートルズとクラシック音楽、フォークソングに歌謡曲、そして写真をこよなく愛する男で、そんな彼とは共通の話題が多く、彼とU君と私の即席フォークトリオで演奏を録音したり、朝まで語り合ったり、自転車に乗って大和川の夕暮れを撮影したりと、まるで「俺たちの旅」の一場面のような時間を過ごしましたが、そんな彼とも、バンドになると演奏の進め方などで意見が食い違って激しく議論を交わすことが多くなりました。
この他にも様々な事が重なり、SOME IMOもそろそろ潮時なのかなという兆しが現実になった1986年、同年5月のYANTA鹿鳴館でのライブをラストとすることが決まり、瞬く間に当日を迎えて最後の熱い1時間の演奏を終え、これでとうとう終わったなぁと少し寂しい気持ちのまま一週間が経った頃、K君が突然自宅を訪ねてきました。
彼から「話したいことがある」と切り出され、振り絞るように「何で勝手にラストライブにしたん?流れでそうなったけど、俺には本当はそんなつもりはなかったし、お前が何かとラストライブって言うのが俺は嫌やったんや!!」と…こちらにも沢山言いたいことは山ほどあるぞと思いつつも、この時は不思議なことにほぼ反論をせず、「そうか、他のバンドに入るというのが聞こえたから、もう解散したいというサインやと思ってたんや」とだけ伝えると、彼は「勝手に決めるお前が悪い」という言葉を残して帰っていきました。
彼の後姿を見ながら、「何で今まで素直に自分の気持ちを伝えへんかったんや!今頃文句言うたかってもう戻られへんやないか!」そんな気持ちをぶつけていました。しかし一方では、今回の解散については私が半ば勝手な解釈で進めた点も確かに否めず、そういう意味で周りからの意見を受け付けない、または意見し辛い強硬な雰囲気を私が出してしまっていたのだと思います。
約二週間が経ち、彼に対して謝るべき点は謝ろうと考え、そして、そのタイミングを作るべく、ライブ写真の焼き増しと、K君がドラムを叩いている写真を大伸ばしにして額に入れ、その夜彼に電話をしました。
「K君久し振り、元気にしてるか?こないだは悪かった。ライブの写真が出来たから明日持って行きたいんやけど、都合ええか?」と聞くと、「お~ありがとう、明日ちょっと用事があって何時頃戻れるか解れへんから、明日の朝電話してもええか?」と、彼のいつもと変わらない明るい声に内心少しホッとしながら、翌日の電話を待つことにして電話を切りました。
これが、K君との最後の会話になりました。
翌朝になっても、彼からの電話は一向にかかって来ず、やがて昼前になり…内心、アイツ、まだ怒ってるのか、しゃあないやっちゃなぁ…と思いながら、別の用事でU君に電話をすると、彼から信じられない言葉が返ってきました。
「金山、俺も今お前に電話しようと思ってたんや、今K君の兄貴から電話があって、昨晩K君が死んだらしいんや…」
え…?
「昨日の夜10時頃、K君と電話で話してたんやで!つまらん冗談言うなや!!」と返すと、「冗談と違う!どうも昨日の夜中らしいんや、急に心臓発作で倒れて、すぐに救急車で運ばれたんやけど、意識が戻らずそのまま亡くなったらしいんや…」
梅雨の晴れ間の陽射しが眩しい日でした。
極めて呆気無い、受け入れがたい別れの日が、何の前触れも無く、あまりにも突然の現実としてラストライブのほぼ1カ月後に訪れ、仲直りも出来ないまま、21歳の若さにして彼は駆け足で逝ってしまいました。そして、解散直後の我々バンドにとって、本当の意味でのエピローグとなってしまいました。
彼が亡くなって今年で30年が経ちますが、彼と蟠りを持ったまま別れてしまったことを未だに後悔しています。ただ、あの多感な時期にK君という素晴らしい男と出会い、共に笑い、時に衝突し合ったことを通じて教わった、互いの考えを議論を通じて理解し認め合い、そして友人関係に磨きを掛けることが自分の生き方そのものに磨きを掛けること…K君はいつも、何に対しても真剣な眼差しでした。そして私も彼に負けないよう、仕事も遊びも真剣でありたい、そう思っております。
K君、ほんまにありがとう。
【写真】滋賀県 草津の蓮をK君へ
